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男はつらいよ(尾畠春夫物語)

 2才児救出の尾畠さんについて、インタビューなどネット上の情報をまとめてみました。−この人の人生は映画にできるなあ。

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 生まれは1939年。78歳と8ヵ月です。戦前に生まれ、戦争を経験し、戦後の荒廃や復興、そしてバブルも経験した。いまとなってはあの時代に生まれたことに感謝しております。芋とカボチャばかり食う時期もありましたが、それも良き思い出です。
 大分県の国東(くにさき)半島で生まれて、幼少時に現在の杵築(きつき)市に引っ越し、そこで育ちました。父は下駄職人で、主に桐の下駄を作って販売していました。商売は順調ではなかった。ちょうど履き物がゴム製品に変わる頃で、下駄の販売は下降線でした。
母は主婦です。実は母についての記憶は多くはありません。というのも、母は41歳で亡くなってしまった。私が小学5年生のときです。母の死は自分の人生にも大きく影響しました。父はもとより酒好きな人間でしたが、妻が逝き、何人もの子供を抱え、下駄は売れないという厳しい現実から逃れるためか、ヤケ酒に走ってしまった。
 明治生まれだから厳しい人でね。よく殴られました。食うのも厳しい時代だった。育ち盛りにいつも腹を空かせて、つらい思いをしましたよ。
 そして、そんな父によって、農家に奉公に出されることになります。自分は7人兄弟の4番目。ですが、兄弟のなかで自分だけが奉公に出されることになりました。父からの説明は「お前は大飯食らいだから」というものでしたが、納得できるわけがありません。両親に影響を受けた、なんて話がよくありますが、自分にかぎってはそんなものはありません。というのも、小学5年生で親元を離れ、それこそ毎日草刈りやら何やらで忙しかった。学校には行きたくてもまともに行けなかった状態です。奉公に出されたのは、家が貧しくそれを助けるためでした。それはわかっていましたが、父を恨みました。なぜ兄弟のなかで俺だけが……。最初はものすごく悔しかった。(中学は杵築市の八坂中学校に在籍していたが3年間のうち実質的には延べ4ヶ月分しか行けなかったという。)
 とはいえ、奉公に出された以上は腹をくくるしかない。世の中はなるようにしかなりません。「やるだけやってやろうじゃないか」と心を入れ替えたのです。

 以来、奉公に出された家のおやっさんとねえさんを親だと思って何でも言うことを聞きました。すべては飯を食うためです。恨みの対象だった父ですが、いつしか感謝するようになりました。奉公の経験がいまの宝になっていますからね。後ろ向きで得をすることなんてありません。だから自分はプラス思考という言葉が大好きなんです。 
 昭和30年に中学校を卒業すると、卒業式の翌日に別府にある魚屋の小僧になりました。自分の意志ではありません。働くことになったきっかけは姉の紹介です。「働きに出たい」と相談すると、姉から「あんたは元気がいいから魚屋になりなさい」と言われたんです。自分にとって姉の言葉は親の次に重い。もとより姉のことを信用していたので、それに従いました。
 SL汽車で別府駅に向かう際、父から青い10円札を3枚持たされました。「珍しく大盤振る舞いだな」と喜んだのも束の間、すぐに30円は片道切符代だとわかりました。特攻隊と一緒です(笑)。自分には帰るという選択肢はありませんでした。
 魚屋に就職し、食事にアラの煮つけが出たのを見て驚きました。それまで毎日芋とカボチャでしたからね。こんなうまいものがあるのかと衝撃を受けました。

 この別府の魚屋で3年間修業した後、15才の時に魚市場に修業に出ました。10年ぐらい大分市や兵庫の神戸市の魚市場で働きました。関西風の魚の切り方やコミュニケーション術を4年間学んだ。
私は10年修業した後に魚屋を開業するつもりでした。ところが当時、貯金はゼロに近かった。というのも、魚屋の給料は安く、開業資金をまったく準備できなかったんです。
 そこで、開業資金を短期間で用意するために上京しました。20代の半ばで、東京にも出稼ぎに行きましたよ。とび職で3年間。自分の店を開く資金と、結婚資金を貯めるためにね。とび職の経験は、今のボランティアの現場でも生きています」
 お世話になったのは、大田区大森にあった鳶と土木の会社です。もちろん、コネなんてありませんから、そこの親父さんに「俺には夢があります。3年間働かせてください。その代わり、絶対に『NO』と言いません。どんな仕事でもやります」と直談判しました。
鳶や土木の仕事の経験は、いまのボランティア活動に役立っているかもしれませんね。ありがたいことに、会社から「このまま残って頭(かしら)になれ」と熱心に誘っていただきましたが、自分は決めたことは必ず実行するのが信条。これはいまも昔も変わりません。その意味では、面倒な男かもしれません。
 妻との出会いは別府の小僧時代にさかのぼります。修行していた魚屋の向かいの貝専門店の娘でした。うちのかみさんは3学年下。中学1年生でした。当時は混浴の共同風呂があり、自分も彼女も気兼ねなく利用していましたが、風呂に行くのが恥ずかしくなったことを覚えています。当時から「いつかあの子と結婚したい」と意識していました。
 別府の小僧時代の1ヵ月の給料は200円でしたが、100円は自由に使い、残りは貯金した。それもこれも彼女の所帯を持つためでした。
 昭和43年、28才のとき大分に戻り、4月にかみさんと結婚。そして、別府市内に鮮魚店「魚春」を開業した。二文字をくっつけると鰆(さわら)。自分が一番好きな魚です。

近所の住民が語る。
「春さん(尾畠さんの愛称)が捌(さば)く刺身は絶品でした。お祝い事があると、春さんに注文して。年末には店の前に長い行列ができていました」

 振り返ると、繁盛した時期もあれば閉店危機もありました。とりわけ窮地に陥ったのは、大分でPCB(水銀)が社会問題になったときでした。それこそ客足がピタッと止まりました。仕入れの量を通常の10分の1程度に減らしましたが、それでも売れなかった。
このとき、助けになったのは妻の存在でした。かみさんは料理上手で、ポテトサラダやコロッケ、キンピラなど総菜を店で販売するようになった。これで危機を乗り切った。妻がなければいまの自分はないでしょう。

 私にはいま48歳の息子と45歳の娘がいて、孫も5人います。21才の孫娘がいちばん上。下はみんな男の子で、下が小学1年生です。孫は大分県内に住んでいるから、時々会っていますよ。

──奥さまは今どちらに?
「5年前に旅に出たんだ。それから連絡は一度もとっていません。仲が悪いわけじゃなく、籍も入ってますよ。生きてるかって? そりゃ生きてますよ、失礼な(笑い)」
息子は大学まで出すことができた。それもこれもお客さんが魚を買ってくれたから。皆さんが温かく手を差し伸べてくれたからこそ、いまの生活がある。それに気づきました。
いただいた恩をお返しするのは当たり前。それが人の仁義です。どのような形で恩を返そうかと考えたとき、第二の人生をボランティア活動にささげようと決意しました。「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」。好きな言葉です。ですから対価は一切求めません。

65才の誕生日、繁盛していた「魚春」を突然、畳んだ
 女房の支えもあり、商売は順調でしたが、65歳の誕生日に店を畳みました。15歳のときから『俺は50年働く。そして、65歳になったらやりたいことをしよう』と決めていたんです。閉店することは、奥さん以外には当日まで内緒でした。誕生日の朝、店頭に『今まで長い間、ご愛顧ありがとうございました』と書いた紙を貼り出したんです。お客さんからすれば、仰天したようです。
 お得意さんのところへ閉店の挨拶に回ると、意外な反応が返ってきた。
自治体の有料ゴミ袋を手土産に持って行ったんですが、どこも受け取ってくれない。それどころか『これまでわが家は、ずっと魚春さんの魚しか食べてこなかった。これからは一体どうしたらいいんですか』と詰め寄られた。もちろん最後はゴミ袋も受け取ってくれたんですが、そこまで愛されていたことに気づいて、本当に嬉しかった」
 その恩を、直接は無理でも社会を通じて恩返ししたい、との思いがボランティアを始めるきっかけになったと話す。

別の近所の住民はこう語る。
「春さんは引退してからボランティアを始めたんじゃありません。魚春の頃から、近所にスズメバチの巣ができると率先して取り除き、通学路にマムシが出ると聞くと、“子供たちが危ない”と毎年、草を刈っていた。根っからの“善意の人”なんです」
 40才頃から趣味で山登りを始めた。58才で北アルプス55山を単独縦走。地元の由布岳では、「何度も登っている山へ恩返しがしたい」と登山道整備のボランティアを始めた。週に2回、40kgの道具を背負い、崩れかかった路肩を修理し、案内板を設置した。
「魚春の魚が入っていた箱を解体して、由布岳の遊歩道にあるベンチの修理に使っていました」(前出・別の住民) 2014年、環境相から地域環境美化功労者として表彰された。

災害地ボランティアのきっかけ
 全国各地へとボランティアに出向くようになったきっかけは2004年、64才のときに起きた新潟県中越地震だ。06年66才のとき、「生まれた日本を歩き、体力を試したかった」と、徒歩で日本縦断に挑戦。鹿児島県の佐多岬から北海道宗谷岬まで約3300キロを徒歩で縦断。無人駅やテントに泊まり、九州最南端からたった3か月で北海道の稚内市にたどり着いた。74才のときにも本州を徒歩で1周。現在も1日8kmを歩く。

当時の思い出を語る。
 「今の南三陸の歌津中学の浜の近いところでテントを張ったんです。そしたら地元の人がおこわをこんなに持ってきてくれたの。初対面ですよ」と振り返った。
 しかし、2011年の東日本大震災で当時お世話になった南三陸町の人に電話をすると「電話が通じない。これは、行くしかない」と南三陸町に急行。そしてお世話になった人の無事を確認しボランティア活動をはじめた。その後、計500日という長期にわたり大分県宮城県南三陸町を行き来し、支援活動を行う。とくに津波で流された写真や思い出の品などを収集、洗浄する「思い出探し隊」隊長として尽力した。

「野菜は虫食いのある自然なものしか食べません。庭で作ったものとか。あとは、体にいいというから、パックで甘酒を買って飲んでいます」
 豊富なのが行方不明者の捜索経験だ。今回の理稀ちゃんのケースのように、遭難者の特性を見極めて、居場所を絞り込んでいく。長年の整備活動で山を知り尽くしているため、地元・大分では要請を受け、警察の部隊を率いて捜索に当たったこともあるという。

一番好きな言葉は、「朝は必ず来る。」だそうだ。

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救出時の現場インタビュー(4部構成)



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